無藤 隆様の公開ノートより!

無藤 隆様の公開ノートより

 

「社会に開かれた教育課程」と次期学習指導要領

「社会に開かれた教育課程」とは
 もとより、常に学校の教育課程とそれを規定する学習指導要領は一部学校関係者のみによって作られるものではなく、社会の総意により形成されるべきである。実際、それを受けて、中央教育審議会の委員も学校の代表者や教育学者のみならず、多くの社会を代表する人々が委員に入り、ともに議論をして作っている。
 だが、今回特に社会に開かれたと強調するのは、これからのおそらく激変する時代に向けて、そこをたくましく、新たな可能性を当人においても、日本社会に対しても、さらに世界全体を見通して作り出してほしいという願いがあるからなのである。それは様々な危機であると同時に多くの挑戦すべき課題に満ちた時代であり、有能で意気に満ちた若者の出番なのである。

 

日本の課題とは
 では、これからの時代はどういうものであり、そこで必要となる力や知識は何なのであろうか。おそらくこれからの日本の社会そして世界は多くの未知の課題に出会うことだけは確かである。それを種々に予測できるとしても確実にこうだと誰も言えない。その上、その課題の種類は多岐にわたり、1つの解決が次の課題を生み出すようになっていくだろう。日本がどこかの国においてなされた解決に習って、それを取り入れればよいという時代はとっくに過ぎている。またエリートだけがそれに取り組めばよいのではなく、国民の誰もがその暮らし働く場でそういった課題に直面することだろう。
 誰もがどう解決すればよいか安易で既知の答がないような課題に向けて挑戦し、解決を図る時代となっていくのである。それはよく言われるように、AIに代表される技術革新の進歩や世界がグローバル化し流動化していくことや地球環境の変貌や他の多くの政治的経済的そして社会的な変化の速度が増しているからであるが、それに止まらない。その変化のあり方そのものが予想を超えていくであろうと考えられるのである。今、できる限り予測を試みて、解決への用意をすべきなのであるが、ほぼ確実に事態はその予想とはこととなると覚悟しなければならない。日本の出会う課題は既に他の国にある解決策に習うというものではなくなった。他の国々とともに、世界の第一線で活躍し、その挑戦に応じていく人材の育成がますます求められるようになる。その一線とはたとえ、国内に暮らし、地域社会の中で過ごし働こうと、そこに訪れ、また生まれる課題なのである。そういうローカルな課題と解決が同時にグローバルとなる社会となっているのである。
 さらに人生の長さ、その中で働く期間の長期化も考えなければならない。多くの人にとって、二十歳過ぎからとして、70歳くらいまでとして、ザッと50年ほどが働く期間となる。その間、それまでに学校で学んだ知見で仕事をし続けられるだろうか。それ以前に生活そのものが大きく変わっていくに違いない。中年期に職種を変える人も増えるだろう。同じ職だとしてもその仕事のやり方も大きく代わっていくに違いない。

 

学校のミッションとは
 では、学校が教えるべき事柄はそれに応じて変わるべきなのであろうか。
 基礎となる知識・技能が変わるわけではない。例えば、四則演算のやり方が変わるはずもなく、不要になることもない。たとえ、コンピュータが計算してくれたとしても、基礎なる計算のやり方には習熟していなければ、簡単なことのチェックもできない。英語にしてもそうだ。仮に翻訳機が発達したとしても、基本的な単語や文を自在に使えないなら、実際のコミュニケーションもまた専門的なまた娯楽的な外国語の本の読書も困難だろう。
 だが、未知の課題が輩出するとともに、生活も仕事もおそらく10年単位で変貌していくとするならば、そこでの基礎となる学力とは何だろうか。何より未知の課題に対していかにして問題解決を図るかということに他ならない。それはもちろん、既に知っていることの土台の上に成り立つが、しかし同時に新たな情報収集を行い、試行錯誤をしつつ、自分で様々な角度から考えることによって、先が開けることである。
 だからこそ、思考力を育成し、とりわけ未知の課題の問題解決の力を育成することが学校の大きな課題となってきたのである。さらに、難しい課題にあえて挑戦し、その解決を多くの人とともに工夫して進めることも必要になる。
 従来、そういった力の育成を学校を卒業して社会の中で、また大学で指導するととらえてきた。それ自体は今後も変わらないが、だが、その前の時期はいわゆる基礎学力と以前に言われたことに加えて、問題解決に取り組む力そのものを幼い時期から育てることが必要だし、可能であり、しかも有効だと分かってきたのである。それが過去25年間の世界中の研究と教育実践の成果と言えることである。むしろ、日本の実情を考えると、大学や成人期にそのようなことの基礎の形成を図るのでは遅いかもしれないのである。そこで目指すべきことは、社会の中でも学び続け、新たな知識とともにそういった課題解決のための力を伸ばすことである。
 では、その力の芽生えとなるところを学校教育でしっかりと育てるとして、それはどういう力なのであろうか。それは端的に言えば、学校において知識・技能とともに、思考力等を育て、さらにそれを推進する学びに向かう力などを育成するということなのである。

 

資質・能力と見方・考え方の育成
 そこで、基本となる学校で育てるべき力を資質・能力として、それを三つの柱で構成し、それを教科等の指導の中核とする。「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力等」、「学びに向かう力・人間性等」である。前の二つは知的な力であり、対象についての知識を思考によって操作する働きである。後の一つは情意的な力であり、知識と思考の知的操作を推進する力である。それらは相互に支え合い、循環して、伸びていく。
 知識・技能とは単に個別のことを覚えるということを意味していない。習熟は必要であるが、その上で、知識を他の知識とつなぎ、一連のまとまりのある知識群として初めて理解に有用なものとして使われる。そういった知識の構造化を進めるのが教科の中心的な働きである。教科はそういった既に体系化された知識からなっており、それを学ぶ側が一つ一つ取り入れて自分なりに知識をつなぎ、構造としていくのである。それがさらに中核となる概念により説明可能されることにより概念化が進められる。構造がもっとメリハリのきいたものとなるのである。そうすると、新たな情報が出てくれば、その構造に結びつけ、時に構造を改変していく。それが知識の獲得の過程である。それにより、知識はまとまりをもって、課題解決の際に呼び出しやすくなり、解決に使える道具となる。
 思考力等は、知識等を活用し、新たな情報を結びつけ、さらに問題状況を整理して、必要な解決方略を練り、解決に進む過程のことである。そこでは、そこで得られた考えを表現し吟味し直し、課題解決に即したものと変えていく。知識・技能と思考力等は互いに連動し、相互に発展していくものである。さらに、思考と判断と表現は一連の過程であり、思考は表現により対象化され、また共有され、深化していく。
 情意としての学びに向かう力とは意欲や意志であり、難しい課題に挑戦し、取り組み続けようとすることである。学びの過程を支える力であり、そこでの困難にひるむことなく工夫し続ける姿勢である。事態を探究し、新たな情報を探し、再び考える。人と協力し、課題解決へと協働していく。そういった社会的で情意的な力が学校の授業を通して育成することが可能だという見通しを得たことにある。それが実践としての成果でもある。その学びに向かう力がいずれ個人としての生き方に結びついて、その後の生き方を支えるものともなる。
 そういった資質・能力は学校教育においては教科等の時間において体系的な知識とそれに基づく教科等ごとの「見方・考え方」において育成を可能にしていく。学校とは資質・能力の育成を目指し、教科等ごとの時間を通して、教科等ごとの独自の「見方・考え方」を身に付けることを通して、育成可能としていくのである。その教科等に固有の知識群とそれに支えられる固有の思考の仕方が見方・考え方の中核であり、その後、問題解決の道具として活かしていけるのである。
 さらに、その見方・考え方は様々な問題解決の場面での経験をへて 教科等を超えて相互につながりを持つところへと発展していく。例えば、言葉を使った思考力と数理的思考力が重なり、多様な問題解決へとイカされるだろう。、教科等を超えて用いる力となっていくことで、学校を離れても使える道具となるのである。

 

アクティブな学びとは
 アクティブな学びとは、そういった資質・能力の三つの柱が相互に連動して、高め合っていく学びの過程のあり方である。それを促すのがアクティブ・ラーニングとしての主体的・対話的で深い学びなのである。見通しを持った学び、表現し対話する学び、見方・考え方を深めていく学びなどを遠し、学びは資質・能力の育成へと発展する。
 こういったアクティブな学びの指導を一人一人の学びを可能にするところへと進めていく。そのためには、優れた教師による指導の特質を取り出し、広げていく必要がある。そのために、カリキュラムと指導のあり方を工夫し、学校としてカリキュラム・マネジメントを進めていく中で教員の力を高めていくのである。

 

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