英語の四技能は、テストのスコアで測るものではない!!

英語の四技能は、テストのスコアで測るものではない

連続ツイート2140回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、いわゆる「英語の四技能」について。

英語の四技能が大切だ、ということで、大学入試も変わって、読む、書く、聞く、話すをテストするらしいが、私にはどうもへんな方向に行っているようにしか思えない。特に、英語の民間試験を採用うんぬんには、錯誤があるように感じる。

英語の四技能は、「テストする」というよりは、そもそもふだんの学習の中で自然に身につけるものである。その点、日本の敎育の宿痾は「テスト原理主義」とでも言うべきもので、テスト原理主義を打破しなければ、四技能など身に付くはずがない。そっちを改めずにして四技能うんぬんというのは愚かだ。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は1951年に出版された本だが、この中に、主人公ができの悪い友人に頼まれて英語のエッセイを書く場面がある。主人公は英語だけは得意で、お兄さんのたくさん惹句が書かれた野球のグローブを記述するのだ。

日本の英語の敎育現場で、今まで、自分の兄が持っている野球のグローブを記述するエッセイを書く、みたいな指導が行われてきたことはどれくらいあるのか、あるいは、何かを持ってきてみんなに見せて話す、ショウアンドテルはどれくらいやっているのか。

あるいは、英語の演劇を学校で上演する、というのはどれくらい行われているのか? 英語の四技能は、つまり、一点刻みで正確に点数がつけられる(というフィクションというかファンタジー)に基づいている日本の教育界の「テスト原理主義」とは本質的に相容れない。学力観、哲学が根本から違う。

エッセイや、演劇のパフォーマンスにおける英語の技能を評価するということは、日本の教育界が全く積み重ねて来なかった主観的評価、個別性への向き合いが必要で、それができるとはとても思えない。ちまちましたペーパーテストの採点は得意でも、百人いれば百人違うエッセイを、どう評価できるのか。

英語の四技能は、「テスト」するものではなく、日々の実践で積み重ねるものである。それを見極めずに、相変わらずの小さく前にならえ、ちいちいぱっぱの学力観、哲学で民間テストを導入しても、悲惨な結果になるだけだ。それならば、センター試験の方がよほどマシだと言える。

以上、連続ツイート2140回「英語の四技能は、テストのスコアで測るものではない」をテーマに、7つのツイートをお届けしました。  続き・・・